はーみんの永い言い訳

【2018年5月25日〜】

そうだ,映画を作ろう

2015/12/18

 

最近は原因不明のアレルギーに悩まされ、アレルギー剤の服用中に飲み会でもあればいつも一人だけジンジャーエール。しかし今日の忘年会では調子に乗りビールを3杯も飲んでしまった。身体中が痒くなりトイレにいって鏡を見たら顔も体も蕁麻疹でまっかっか。もうお酒も飲めない体になってしまったか。人生における幸せを一つ失った気がしてなんだか悔しい。

 まあ、いいか。ここ数ヶ月、忙しなさに紛れ思惟を放棄しがむしゃらに突っ走ってきた結果一つだけ成果があったとすると、それはあらゆることに対するコントロールを手放せるようになったこと。とうとうお前も己の無力さに気づいたか。鏡に映った自分に向かってどっかのアニメに出てくる悪党風に問いかけてみる。なんだかバカバカしくなって少し早めに帰ることにした。静まり返った深夜の横丁を通る。マフラーに顔を埋めたまま無力な人間、無力な人間、とぶつぶつ呟いてみた。キャバクラのキャッチがちらちらこっちを見てくる。そんなわけない、こんなんで私の人生終わるはずない。

 「SNSなんて、マインドフルな人間がやることじゃないよ」
 今年の夏、ちょうどプレの卒論実験が始まる頃、私が同期に向かって言った言葉だった。その頃の私にとって「マインドフルネス」は最も熱いテーマだった。2,500年前に釈迦が提唱した瞑想とそれによる心のあり方。常に今この瞬間にフルで注意を向ける。全てが一過性のものであることを認め、過ぎ去って行く事象を裁かず、感じとり、受け止め、手放す。それによって得られるものは絶対的な心の安らぎ。静寂で、あたたかくて、欠乏感など存在しない、そんなふわふわした世界。私はまさにそんな綿菓子のような世界を夢見、マインドフルネスこそが私を、そして疲れ切ったこの社会を救える唯一の手段であると確信していた。
 
 これが瞑想によって得られる真の幸せのあり方だ。どうだ、すごいだろ。しかしお前らはどうなんだ。暇さえあれば携帯をひらいてFBやらツイッターやらを眺める。くだらないことをつぶやいて、機械的にいいね!を押す。実態もないものに向かって笑ったり怒ったり。おかしくない?みんなどうかしてるの!その時の私はとてつもない危機感にかられていた。世界がいかに「やばい」状況におかれているのかについて熱弁をふるっていたのだ。

 なのに、私はいつの間にかまたここに戻ってきた。社会との繋がりに奉仕する(social network service)とか、なんて大げさなネーミングセンスだ。マークザッカーバーグかハンバーグかしらないが、社会不適合者かつ重度のコミュニケーション障害持ちの私でも所在地地球の誰かさんと繋がりたくなっちゃうから大した男だな。そしてふと気がつく。そうか、私は今寂しいのか。そしてこの寂しさを自分の世界に投影させていたのか。私の眼に映る世界にはいつも「やばい」奴がたくさんいて、その「やばい」奴をなんとかしてやらなくてはいけないような使命に燃えていたのだ。

 この間一般の大学生を対象に実施したうつ病の尺度調査では平均得点38.6という驚異の結果が出た。38.6点ならアメリカの健常者群の平均得点をはるかに上回る結果だ。日本人大学生を相手に行ったことを勘案するとしても驚きの数字だ。「やばいね、みんな精神病だね」一緒に結果を眺めていた先輩がぽろっとこぼした一言だった。そうかもしれない。もしかするとこの世には精神病患者か精神病予備軍しかいなくて、すぐにでも病院に駆けつけ向精神薬をもらうなりカウンセリングを受けるなりすべきなのかもしれない。

 私のある知り合いは3ヶ月以上同じ場所にいると病んでくると言っていた。それもまた驚いた話で。どうして驚いたかって、「病んでくる」という発言の重みだ。彼は自分のヤミの領域との付き合い方を知っていた。反応の仕様がなかった。彼に必要なのは適切な診断か?だとするとどういう診断だ。幼児期のトラウマチックな出来事が原因かもしれない。いや、精神分析はもうあてにならんぞ。あれだ、あれ、認知行動療法だ。こりゃあ体験の回避に違いない。あれれ、やはり認知の歪みか?とりあえずラポールだ、ラポール!カウンセリングに入る前にクライエントとの信頼関係を築かなくっちゃ。

 急に笑いが止まらなくなる。
 いつから私はこんなつまんない見方しかできなくなったのだろう。

 釈迦のいうことが本当ならば、この世はすべて妄想でできている。いや、本当じゃなくてもいい。勝手に繰り広げられるヴァーチャルな世界の中で私たちは見たいものだけを見ながら生きていく。すぐさまラベリングし、綺麗に並べて分類してから、いかにかっこいい理屈を付け足せるか工夫する。そこには見本となるイデア的な存在が常に存在して、どこか少しでもかけていたら(というか異なる形をしていたら)それは、それは、大問題だ。修復するための案をまた練り、試行錯誤を経て想定していた結果が出たら頷いては口を揃えて言うのだ。「うん、これはうまくいった」。それがまた新たなルールになる。そして数々の制約に縛られることに心地よさを見出す。

 私も大して変わらなかった。いつの間にか私は相手が求めるものを察しては与えることしかしなくなっていた。今の日本は少子高齢化が進んでいて、まさにザ・ストレス社会!私はその中で少しでも人々が楽に暮らしていけるような環境作りに努め、社会に貢献したいのです!QOLの向上万歳!

 くだらねーな。もう飽きちゃった。これ以上このくそつまない生活続けるならいっそ死んだほうがマシかもしれない。旅に出たい。宇宙に生まれてきた以上その核心を突きたいという素朴な願望はとうとうわたくしの命まで脅かすのか。

 そうだ、観照者になろう!同時に創作者にもなり得る。これからはアーティストとして生きるんだ。監督も主演も全部私の面白い劇を作って見ようじゃないか。プロットなんてめちゃくちゃでも構わない。そもそも脚本が存在しないからいくらでもアドリブは効くし、構成もカメラワークも自由だ。認識は妄想であるという釈迦の教えとも矛盾しないから万事オッケーだな。我ながら詭弁に聞こえるが楽しければなんでもいいじゃない。いろんなクルーに出会えるだろう。舞台が地球なら60億人ものエキストラを採用するんだ。運が良ければ地球外生命体にも出演してもらえるかもしれない。そして彼らは現れては去って行く。私のアングルに映っては消えて行く。。。

 壁越しにルームメイトの電話の話し声が聞こえてくる。ここ数日、彼女は夜明けまで誰かと電話をしている。また新しく男でも作ったのだろう。急に睡魔が襲ってくる。アレルギー剤のせいなのかアルコールのせいなのかわからない。私の物語はどこまでがフィクションでどこまでがファクトなのだろうか。眠いから今日はここまで。