はーみんの永い言い訳

【2018年5月25日〜】

スカートの下の劇場(下)

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  女はヤレばヤルほど安っぽくなるけど,男は抱いた女の数がそのまま自信につながる。社会はいつだって女性と男性とに異なる性道徳を課してきた。そして,こういった社会規範に違反する女性に対しては「尻軽」とか「ふしだら」などと侮蔑する言葉を投げる。一刻でも早く消したい記憶が裁判官という,国家権力によって再び流されたその日,ク・ハラはすでに死んだのかもしれない。これは,家父長制という長く乱暴な物語が,女性に対する一切の共感能力を備えていないことの証だ。なぜなら,家父長制は女を「モノ」として扱うから。一人の女性の体は,もう一人の男性の子を生むためだけに存在する。よって,複数の男を抱けるような性的パワーを持っている女は,徹底的に人間の群れから排除しなければならない。

 

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 男が悪くて,女が被害者だとか,そんな単純な話じゃない...。今韓国では,男vs女の性対決フレームにソルリやク・ハラの死を持って行こうとしている動きがある。論点がズレまくり,亡くなった人への敬意はかけらもなく,もうめちゃくちゃ。議論されるべく問題が浮き上がってくると,人はすぐさまヘイトスピーチに逃げる。まったく卑怯な行為だ。反韓と反日に長年苦しんできたわたしに言わせてもらうと,社会悪以外の何物でもない。

 

 家父長制は家父長的な女(同調と傍観)と家父長的な男(搾取)が共同制作で作り上げてきた物語な気がするのだ。言い方は悪いが,うまく飼い慣らされた女は,家父長制の番人(と書いて手下と読む)としてもってこいだ。男女老若問わず,勢揃いでソルリが攻撃されたのは,こういったことが背景にあったからなんだと思う。

 

だから何が言いたいかって,わたしは別にソルリやク・ハラを自殺に追いやった原因について追求しているわけではない。死んだ人は何も言えないから,そんなの生き延びた人たちがいくら考えてたって意味がないと思う。だけど,彼女たちが受けた不当な扱いについては,議論する価値が十分にある。なぜなら,この家父長制が,人を,女を,殺すからだ。

 

 ここでもう一度,スカートの下の話に戻ってみる。

 家父長制という名の物語が最も恐れている事態は,いうまでもなく,女が自分の体を所有することで,女性が自分の性的自己決定権を思うがまま行使することは,家父長的な男性にとって,最も大きな脅威となる。この物語の中で女は,自分の本当の美しさに,決して気づいてはいけない。それを決めるのは,有史以来ずっと男性であり続けた。気づいてはいけないものに気づいてしまった者は,死ぬまで続くイルカトレーニング(オペラント学習,社会が人間を飼い慣らす方法は恐ろしいほどイルカトレーニングのそれと似ている)に懲らしめられなければならない。

 

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 わたしには,ソルリの描いていたその絵が,彼女の健気な決心のように思えていた。想像してみるのだ。ひとりの美しい女性がある日,自分の放つとてもエネルギッシュな魅力に気づき,その価値を自分で決めようとした。そしてその心を,そっと紙の上に移してみた…。

 

 こういう類の話って,想像すれば想像するほど,書けば書くほど,訴えれば訴えるほど虚しくなる。世の中は,女のスカートの下の劇場にはいつだって興味津々になるけど,女のスカートの下の激情には,なかなか冷たいものなのだ。わたしはグローバルな平和を望む。そして,戦争のない世の中を望む。そのためにも,ジェンダーの平等を訴え続けるつもりだ。ジェンダーの平等は国際平和を促進する。戦争はたいてい,家父長制の価値観や男らしさが売り物の政治家が煽るもの(Harari,2018)だから。