はーみんの永い言い訳

【2018年5月25日〜】

ボンドガールとターコイズブルー

2015/12/29

 

いつの間にか日が暮れていた。真っ黒な空のした、それとは対照的なイルミネーションの灯りが街中を染める。道沿いの街路樹に咲いた輝く花々はリズミカルに色を変えていた。赤かったり、白かったり、青かったり、まるで群舞のようだ。走って行く車のヘッドライトさえイルミネーションに一部に見えた。年末を迎えた都心の風景は大好きだ。何もかもが輝いていて、目がくらみそうになる。その浮ついた空気に身を任せ、目一杯冬を嗅いでみた。つめたくて、ほんの少し灰色がかかった半透明の匂いが身体中を埋め尽くす。

 平日だったせいか映画館は空いていた。落ち着いた館内をあとにし外に出てからもなかなか映画の興奮がおさまらない。半年前から楽しみにしていた007シリーズ24作目の『スペクター』だった。私は少し上気した顔を夜風に当てながら美しく光るけやき坂通りをくだった。ディナーの約束までまだ時間はある。

 相も変わらずダニエル・クレイグ演じる野獣みたいなジェームズ・ボンドと『スカイフォール』から加わったレイフ・ファインズのかっこよさは反則レベル。中年の色気とはこういうことか。メキシコシティの盛大なお祭り「死者の日」をそのまま再現したオープニング・シークエンスからアストンマーチンとジャガーが製作を手がけたスーパーカーまで、映画一本にどれだけの制作費を費やしたのか想像もつかない。その贅沢なボディーとセクシーな走りっぷりに誰もが魅了されただろう。ヨーロッパ各地を行き渡る舞台設定に、見事にスタントを使いこなして出来上がった華麗なアクションシーンはさすがだとしか言いようがない(ヘリコプターシーンはCGなしの全部本物!)。まあ、往年の007ファンと新しく確保すべく観客どちらも意識したせいかストーリーが乱雑かつ長すぎた感があることは否めないが、レア・セドゥが今作のボンド・ガールなだけで見る価値は十分だったのでは。ここは民主主義国家だから個人の趣味は尊重しよう。

 映画についてあれこれ考えているうちに友人Tが浮かんでくる。彼女とはよく映画に出かけていた。

 「クレイジーな人間は好きよ。でもコモンセンスは備わってないとね」
 ブラッディ・メアリーを片手にしてTは言っていた。名前からどこか不気味なそのカクテルはウォッカベースにトマトジュースを入れたものらしい。通りでそんな色をしているのね、私はグラスの中で揺れる真っ赤な液体を見つめながら彼女の説明に耳を傾ける。年下のくせに私の20倍くらいお酒の強いTは、好きで終わらせるのがもったいないとソムリエの資格取得まで目指していた。全く生意気なやつだ。ただの酒のみなら許せたのに。

 それにしてもクレイジーだがコモンセンスはある人間とはどういう人間なのだろう。どこか矛盾した話にも聞こえるが、私にはTこそそういう人間に思えた。笑うと三日月のように柔らかく曲がる彼女の目はいつも好奇心旺盛に光る。謙虚だが貪欲に学び、ときに見せる傲慢な態度に決して偏見は交えない。矛盾だらけだ。そんなTを色に例えると水色っぽいくすんだ青緑かな。どうしてそうかはわからない。ただ、もうすぐ彼女がトルコに旅立つという話を聞いた時には妙に納得できて思わず笑ってしまった。私がずっと浮かべていた清涼感あふれるその色は、おそらくターコイズ・ブルー(turquoise blue)だったのだろう。あなたはラテン系なはずなのに選んだのはトルコなのね、からかうように私はそう言った。

 そういえば、スペクターでボンド・ガールをつとめたレア・セドゥは「アデル、ブルーは熱い色」という作品でも知られている。この映画もみるきっかけはTのオススメだったことを思い出す。レア・セドゥ演じる魔性のレズビアン、エマは青い髪が印象的な女性だった。ターコイズ・ブルーよりは少し明度高めの爽やかな青。

 あるべきものがあるべきところにないとき、人は寂しさを覚える。私は特に「不在」というものに弱いのだ。最近Tにはとんでもなくイケメンなトルコ人の彼氏が出来た。ダビデ像を連想させる彼の顔写真が送られた日、「元気そうで何よりね」とは言ったものの、私以外の誰かに映画について楽しそうに語る彼女を浮かべ悔しい気持ちになったのだから私は相当Tの「不在」を患って(少し大げさにいうと)いるのだろう。トルコ人のイケメンな彼氏ができたくらいで「私はラッキーです!」と幸せそうにはしゃぐTは、きっとものすごく素朴な人間か、自身の魅力に十分気づいていないかのどっちかだ。

 ヒルズ本館に戻り、私は喫煙所を探し出した。2015年も残りわずか、何かでかいことできないかなと思いついたのが禁煙だったはずが結局やめられないままでいる。不在に弱いとはまさにこういうことなのかもしれない。ニコチンは神経伝達物質から離れやすいからすぐにまた求めてしまうメカニズムからしてもそうだ。だって、離れてしまうなんて寂しいじゃない。

誰もがwell-beingを訴えるこのご時世、200種類にも及ぶ有害物質を肺に入れるなんて時代遅れにも程がある。我ながらまったく時代錯誤な女だ、煙草に火をつけながら考える。けど20年代には煙草を吸い、お酒をがんがん飲む元気でセクシーな女性が魅力的だとされたのだから、その時代に生まれていれば私は今よりモテたのかもしれない。エーリッヒフロムは人間を魅力的にする条件は常に時代の流行に左右され、現代人は愛することより愛されることを巡り闘争すると言っていた。今やお金を払えば遺伝子も買えるし、人が商品化されることなんてこれっぽっちもおかしくない。愛と魅力を売る現代人のマーケットで私はどれくらいの価値があるのだろう。時代が求める女性像に自分をはめることが、私にはそう簡単ではない。

 歴代のボンド・ガールを見ればその時代が魅力的とみなす女性像がすぐわかる。クレイグボンドのデビュー作『カジノ・ロワイヤル』からは知的セクシーさを兼備したボンド・ガールが活躍してきた。豊満なボディーだけでは物足りない時代だ。歴代ボンド・ガールの傾向について研究してみても面白そうだなと思って調べたところ、すでにアメリカで調査済みで学術専門誌「セックス・ロールズSex Roles」にも掲載されたらしい。やっぱり時代遅れだった。まあ、興味のある方のためあとで親切にシネマトゥデイの記事をそのまま引いておこう。

 そろそろディナーの時間だ。向かう場所があることにほっとする。行き場もなく人混みにまじっていると、私はひどく気がめいってしまうのだ。もうすぐ会える人たちを浮かべては、出会ってきた人たちを思い出した。在と不在、その間を私は今日もさまよいつづける。

「過去20作で演じられた195人のボンド・ガールのキャラクターを調べたもの。195人のボンド・ガールのうち、ボンドと性的関係を結んだのは98人、そのうちベッドインしたのは46人、キスなどの軽い関係は52人だった。ボンドに抱かれた女性はグラマーというよりも若くてやせ型であることが多く、髪の色は27パーセントがブロンド、40パーセントが黒髪、茶色は19パーセントで赤毛は9パーセントだった。さらに、アメリカ英語を話すボンド・ガールは全体の4分の1だが、ヨーロッパのアクセントやイギリス英語の女性よりもベッドインの可能性が高いことも判明」(http://www.cinematoday.jp/page/N0018370、シネマトゥデイ)